部落史講座
「特定の人びと」とはだれであるか。「特定の理由」とは何か。また「差別」をどのように定義するか。何を差別ととらえるか。これらによっても「起源」は違ってきます。 そして,これらのことを考えるとき,必ずしも現代の差別の定義・規定が当てはまるとは限りません。当時の人びとの認識が重要となります。また,誰が差別したのかも重要な視点です。これにより,なぜ「その人びと」は「特定の人びと」を差別したのかも明らかになります。さらには,「慣習的・習俗的な差別」か「制度的な差別」なのかも考察すべき課題です。
『部落史用語辞典』を参考に「部落の起源説」をまとめておきます。
(1)異人種起源説 ●異人種起源説とは,部落民は朝鮮・中国など大陸から渡来した異人種の子孫であるとする説です。
@渡来人子孫説 ●渡来人子孫説とは,古代社会における渡来人の子孫が部落民となったとする説です。 ●古代社会において日本は,中国・朝鮮から多くの技術や文化を学んできました。稲作などの農耕,青銅器・鉄器や陶磁器などの製作技術,用水路などの土木技術,文字や儒学・仏教などの文化です。渡来人の多くが朝廷の部民となり重く用いられ,天皇家や貴族と通婚がみられることから,賤視されたとは考えられない。 A古代賤民起源説 ●古代賤民起源説とは,古代賤民の系譜を引く者が近世賤民となったとする説です。 ●古代の身分制である「良・賤」で,良に属して公民との通婚が認められていたが一般の公民より低くみられていた「品部」「雑戸」を源流とする考えです。品部・雑戸は宮廷の手工業に従事しており,渡来人が多かったことからも考えられた。また雑戸の鷹戸には鷹の生餌を捕る餌取の仕事があったので,えた→餌取→雑戸→渡来人→異人種という連想から系譜が考えられたのです。しかし,宮廷工房は世襲制は早くに崩れ,工房内での技術伝習によって受け継がれていました。また鷹戸は品部であって雑戸ではなく,餌取は近世では部落民ではないこと,律令体制の崩壊や「奴婢停止令」が出されたことなどから,古代身分が近世まで直流しているとは考えられない。 B戦争捕虜子孫説 部落の源流を蝦夷またはアイヌの捕虜とする説と神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜とする説です。 ●部落の源流を蝦夷またはアイヌの捕虜とする説 江戸時代後期の蘭学者帆足万里が『東潜夫論』に,穢多は日本武尊が蝦夷征伐をしたときの捕虜の子孫であると記しています。
シーボルトが『江戸参府紀行』に,部落は一般住民と隔離断絶させられ,非常に低い一種独特の階級で,おそらくその昔隣国朝鮮と戦った時の捕虜の子孫であろうと記しています。
慶応末年,摂津西成郡渡辺村(役人村)に対して幕府が御用金を課したとき,渡辺村ではその交換条件として賤称廃止を歎願した書に,自分らの祖先がかつて神功皇后の朝鮮征伐に従事した際,朝鮮の地における一般の風習として嗜んだ肉食を帰陣後も続けたことが,神国清浄の地に合わないとして朝勤を禁ぜられ,非浄人とされて,不浄な御用勤めを命じられ,人間としての交わりを許されなくなったことなどを訴えています。 ●これらの説は,近世中期の儒学による身分制強化策,国学の日本中心主義思潮や近世末期の攘夷思想の高揚のなかで作り出されたものと考えられます。逆に考えれば,部落民(被差別民・被差別身分)の生活向上や身分解放の動きがあり,それに対する既存体制を維持しようとする動きがこのような説を作り出したと考えることができます。つまり,身分制強化を正当化するために考え出された説と理解する方が自然だと思います。すなわち,部落民の動きへの警戒と,彼は異人種の者であって,一般民衆から蔑視・賤視されるのは当然であるとして,封建的身分制度を存続させようとするために作り出された説と言えるでしょう。 (2)宗教起源説 ●仏教や神道の教義などにより部落差別が成立したとする説です。 ●仏教には殺生戒などがあり,生物を殺すことを戒め,肉食を嫌っている。神道では不浄を嫌い死や血の穢れを忌むとしている。これらにより,死牛馬処理・皮革・屠殺などたずさわる人々への賤視が部落差別が生み出したという考えです。確かに,室町中期以降には教団内部や教義に差別観を強調する例もみられ,また近世社会では身分差別を強化し,教団内部にも差別的体質が強化されています。しかし,この説では武士や漁師・猟師などが殺生による差別を受けてない事実を説明することができません。 (3)職業起源説 ●殺生などをなどを行い,死・血の穢れに触れる職業に就いたことによって差別され,部落が成立したとする説です。 ●古代末から中世には触穢思想によって職業に対する差別観念がありました。律令体制下で鷹や?の餌をとる鷹戸の業種がのちに民間に移り,牛馬の肉から鷹・?の餌をとる業域に拡大され,この業種を営む者は賤民であると評されるようになりました。また「夙」という近世の賤民も古代の「陵戸」のなまった「守戸」からきたもので,守戸は天皇・皇族の陵墓の維持・管理にあたる賤民(「五色の賤」の最上位)であり,このことから墓守の仕事に賤視観が生まれたといわれています。 喜田貞吉は,屠殺などの職業が中世以来嫌忌されるようになり,それに従事した者が賤民にされたと考えました。
中世社会の賤民層の者をみると,非農民で支配者や社寺などで使役される種々雑多な雑業をもつ人々のなかに「穢多」といわれる者があり,その中で特に皮革業をおこなう集団が城下町の一部に居住させられ身分も固定させられたのであるから,源流からみると,賤民身分の者がまずあって,それに職業があとから付いたという批判です。つまり,近世の幕藩体制が整備されていくなかで,身分・職業が固定化していったものであり,職業が身分を決定したのではないという考えです。 (4)政治起源説 ●近世において支配者側の行政意図に基づき,身分・職業・居住を固定化し世襲化させたという説です。 @16世紀末から17世紀初頭成立説 ●中世末・戦国期における「きよめ」などの存在に注目し,それと近世皮多部落の成立を関連づけてみる説です。 この時期は,太閤検地が行われて中世の荘園制が一掃され,一地一作の原則が全国的に確立しました。また,検地帳に登録されることで耕地の所有を認められる代わりに耕作者・貢租負担者として,その村に緊縛されることになりました。検地帳には,名請人の肩書として中世の賤民称を示す「かわた」「さくい」などの記載があり,また「かわた」の屋敷は「かわた分」として一括登録されている例があることから,身分・職業・居住地が把握された身分制に部落民として規制されたとする考えです。秀吉による刀狩や身分統制令によって兵農分離がおこなわれ,新しい身分制がつくられたとし,そこに根拠を求めています。 A寛永期から元禄期成立説 ●太閤検地などにみられる「かわた」身分の成立は,社会的分業が成立していく過程であって,皮革生産の権力的集中を示すものであり,賤民身分制を確立していく前提をつくったと考え,「かわた」から「穢多」への転換が行われ,断罪などの役儀の強制などとともに幕藩制的賤民身分として「穢多」身分が固定化された時期を成立とする説です。 B17世紀後半,寛文・延宝期成立説 ●部落成立の主要な指標を「地域的差別の編成」という事実に求め,太閤検地帳記載の「かわた」や「さいく」は必ずしも居住地を明確にしていないと考え,寛文・延宝期の新しい検地により「かわた」や「さくい」の居住地が劣悪な土地に移されていくことや,検地帳や年貢免状(徴税令書的なもの)などの別帳・別免などの事実から,この時期に成立したとする説です。C17世紀末から18世紀初頭成立説 ●部落は近世幕藩権力が人民を分裂支配するために政治的に設定したものであり(藤谷俊雄『部落問題の歴史的研究』部落問題研究所),非人身分の設定と関連して穢多身分もこの時期の成立である(後藤陽一「近世の身分制と社会」岩波講座『日本歴史』九)とする説です。 この説では,近世初頭の「かわた」はかなりの土地を保有しており,後の「穢多」とは同一のものではないと考え,また非人身分は寛文・延宝から元禄の時期(1661〜1703)に固有の賤民身分として設定されていると考えています。したがって,「かわた」身分の賤民化も支配者の権力的措置として行われたものである以上,非人身分の場合と同時期であったと推定しています。
紹介した起源に関する諸説ですが,『部落史用語辞典』を元にまとめています。ということは,これら諸説に対する批判も担当執筆者である小林茂氏の立場である「近世政治起源説」からの批判ということになります。小林氏はご自分の立場を「政治起源説」の「A 寛永期から元禄期成立説」とされています。その立場から諸説を論じられ批判されているわけです。ですから,「近世政治起源説」以外の(批判する)立場に立てば,小林氏の批判が必ずしも正しいとは言えなくなります。 「近世政治起源説」を最初に唱えたとされる藤谷俊雄氏(部落問題研究所初代理事長)の考えは,「太閤検地の際に,検地帳の名請け人のなかにあった『かわた』とか『さくい』という中世の賤民身分を,ある時期,法制的に固定化して身分間の移動ができなくしてしまった」ことから部落が成立したというものです。 「近世政治起源説」の論拠を辻本正教氏は,次のようにまとめています。
この説がなぜ運動体のみならず「同和対策審議会」や政府までが採用し,長く教科書にも採用されてきたのだろうか。「近世政治起源説」の歴史背景について,山本尚友氏の講演(「近世身分制をどう捉えるか」『部落解放史ふくおか』第95号)からまとめておきます。 「近世政治起源説」を最初に主張したのは三好伊平次氏です。彼が戦時下(1943(昭和18)年)で出版したのが皇国史観をベースにした『同和問題の歴史的研究』(同和奉公会)ですが,その中で彼は,穢多・非人の問題というのは,江戸時代になって身分を強く締めつけたことが現在の問題の大本となっているという説を展開しています。 皇国史観とは天皇親政の時代を良しとし,そうでない時代を暗黒とする歴史観で,奈良朝から平安時代初期までの天皇が実権を握っている時代を最も輝かしい時代と考え,武士の権力だけとなった江戸時代を最も暗黒の時代と考えています。三好氏は,この皇国史観に合わせて江戸時代は被差別部落にとっても暗黒の時代であったと説いています。
この中村論文の3年後,原田伴彦氏が「近世権力再編説」という「近世政治起源説」の1つの説を発表します。そして,東上高志氏(現部落問題研究所理事長)が原田説を支持し,中世起源説を全面否定する論文を書かれます。さらにそれを,上記した藤谷氏が後押しする論文を発表し,他の研究者がいくつかの事実を掘り起こして補強することで「近世政治起源説」が1つの学説として定着していったというのが実際の過程です。 では,当時の前近代部落史研究の現状はどうであったかというと,当時の中心的な研究者であった林屋辰三郎氏は,『部落の歴史と解放運動』(1954(昭和29)年)で,部落の起源は散所にあり,古代末期・中世起源の部落史像を展開されています。これは,戦前に部落史研究をおこなった柳田國男,喜田貞吉らが古代から中世にかけて部落の起源を求める説を展開しており,これをベースに戦後の研究も進められていたからです。ですから,研究者の間では中世起源が主流であったわけです。
先の講演で山本尚友氏が整理されている「近世政治起源説の三類型」「近世政治起源説の功罪」をもとにまとめながら,「近世政治起源説」がなぜ(どこが)問題であるかを明らかにしていこうと思います。
このことから,中世の賤民身分は基本的には同じ枠組みで近世につながっているといえます。なぜなら,賤民身分の多くが権力に何らかの形で保護され庇護される特性をもっているからです。穢多身分の場合,軍需品である皮革を生産して上納すると同時に,武士の下で刑吏役を担うことで一定の給分と土地を保証されています。ですから,他の職人身分などが流動的であった戦国時代にあっても,かわたや河原者という皮革を武士に供給する賤民集団は武士に把握され続けています。このことは近世初頭,江戸時代においても変わっていません。
その第1は,身分制度に対する政治権力の関与について過大に評価しすぎたという点です。身分が政治権力とまったく無関係に生成したり定着したりすることはありえませんが,逆に身分を創造するということもありえません。権力ができるのは,すでにある身分を合わせたり分割したりすることであって,無から有を生むような身分創設はできません。 にもかかわらず,政治権力が被差別部落を創出したとする「近世政治起源説」が長く戦後社会の中で続いてきた最大の要因は,部落解放運動が長い間「行政闘争」を中心に展開してきたことだと考えられます。解放運動の主流が行政闘争中心であった時代,「政治権力がつくったものを,今の権力がなくすのは当然である」を大義名分にして行政施策(同和事業)を要求してきた運動体にとって「近世政治起源説」は都合の良い理論であったのです。そして,行政闘争だけで部落差別を解決することが無理だとはっきりしてきたことを背景に,部落の中世起源が見直されるようになったのです。つまり,部落差別は確かに権力によってつくられ,権力によって維持されていくが,それは日本社会の構造に合った形でつくられ,日本社会がそれを内面化し続けてきたからこそ今も差別が残っているのです。このことを明らかにし,日本社会の根底にあって差別を容認させてきた社会の有り様そのものを考えていくためには,中世起源から考察していく必要があるのです。 第2は,被差別身分を創出することができるほどに政治権力が絶対であり巨大であり,権力の意図するとおりの社会が江戸時代に実現したという錯覚を人々に与えたということです。「民衆の団結を防ぐための分断支配」として,あるいは「重い年貢を搾取される百姓の不平や不満をそらし,一揆を防止するための鎮め石」として被差別身分が存在させられ,悲惨な生活を余儀なくされたというイメージを人々の中に作り上げたのです。なぜなら,権力の絶大さを強調することで「近世政治起源説」の信憑性が高まるからです。 はたして江戸時代の政治権力はそれほどに強大で絶大なものであったのだろうか。教科書に記述されている「百姓一揆の件数グラフ」は年を追うごとに件数を増やしている。このことは,分断支配の効果がなく,一揆の防止にも役立っていないことを証明している。あるいは,杵築藩では,10年間の年貢皆済の恩賞として,その村役人・平百姓・穢多身分すべてに褒美を与えている。ただし,褒美は身分間で差が設けられていた。 「近世政治起源説」は解放運動の流れや同和教育の流れの中で,教育・啓発の場での「わかりやすさ」を重視した結果,「身分制度のピラミッド図」のような極端な図式化,『カムイ伝』のような一面的な解釈が行われたのです。この図は身分の違いを「上下」に表しているため,「価値あるもの=武士」「価値のないもの=部落」として認知され,「悲惨な部落」が強調されてしまう結果を生みました。そして,明治以後の歴史過程の中で「社会の最底辺で,貧困で悲惨な生活をする部落」となっていったにもかかわらず,その原因を江戸時代の政治権力に求め,その悲惨な実態は江戸時代から変わらず現在に至ったと認識されようになったのです。「江戸時代の権力者が悪い」「自分は(江戸時代の)部落に生まれなくてよかった」といった生徒の感想も当然のことなのです。なぜなら,部落差別は過去に発生した問題であり,自分たちに責任も関係のないことと受けとめてしまうからです。
ここには「穢れた者」と「穢れていない者」という二律背反の考え(立場)があります。「穢れていない者」が特定の人々を「穢れている者」と一方的に断定(決めつけ)することで「穢れ」に実在感が付与されるわけです。本来見えない(実在しない)「穢れ」を見える(実在する)「もの」によって(使って)実在するかのように思わせている。このトリックの道具が「清め塩」などであり,その根底にあるのが「触穢思想」です。「穢れ」と「穢れの伝播(伝染)」の恐怖を強調すればするほど実在感は増していくのです。「清め」の必要性が強調されるほどに「穢れ」の恐怖と嫌悪感・賤視感が倍加されていくのです。 「触穢」とは,人の死や出産,宍(肉)を食することなどを不浄・穢れ(ケガレ)たと考え,これに接触した人が清浄の身にもどるまでは朝廷の行事や神事に携わるのを忌んだことをいいます。927年に成立した『延喜式』にはケガレについて細かい規定があります。これは,人々の生活における穢れの禁忌を制度化することで,国家の管理の下におこうとしたものです。
まず「浄穢思想」がどのような歴史経緯を経て日本の文化や思想,人々の意識に浸透していったかを簡単に概観しておきます。 浄穢思想はインドのヒンドゥー教に起源があり,密教や神仏習合などと関連しながら日本に受容されたものと考えられます。 古代インダス文明は青銅器や文字をもつ都市国家として栄えていましたが,紀元前1500年〜前600年頃に,西方から鉄製の武器や馬車をもつアーリア人が進入を始め,先住民を征服しながらパンジャーブ地方・ガンジス川流域へと生活圏を拡大しつつ農耕社会を形成していきました。アーリア人は優位な立場にはあったものの完全に先住民を追い払う形はとらず,人種的・文化的に融け合いながら新しい社会をつくりあげました。ここでは祭式が重要性をもち,司祭の権威が高まるにつれて排他的となり,それはしだいに身分制度へと発展していきました。これが「ヴァルナ(種姓)制度」の始まりです。
4世紀におこったグプタ朝(320〜550)の頃より封建社会が形成されるようになり,再びバラモン文化が栄え,ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神などの土着の信仰や習俗と融合してヒンドゥー教が成立していきます。 ヒンドゥー教は宗教ですが,単なる宗教の域を超え,宗教的レベルを異にするさまざまな宗教的観念や儀礼,行法のみならず,カーストという社会構造や慣行,倫理など,生活文化のすべてが含まれる生活法といえるものです。そこで強調されることは「今あなたが存在しているのは前世の行為の結果であるから,そのカースト固有の職に専念しなければならない。それによってのみ,来世の幸福が約束される。他のカーストの仕事をいくらおこなっても成功しない」という「輪廻」と「業」の観念です。
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