部落史講座
 
Index
1「部落」の起源
1-1 起源説
1-2 「近世政治起源説」成立の歴史的背景
1-3 「近世政治起源説」批判 … その功罪
2ケガレとキヨメ
2-1 浄穢思想の歴史(1) … 部落差別の源流:インド(ヒンドゥー教)
 
1「部落」の起源
部落の「起源」を問うことは,部落が差別される時期を明確にすることで,部落差別が生まれた原因を解明できると考えるからです。しかし,何をもって「差別」とするのか,民衆が「特定の人びと」に対して「特定の理由」によって差別し始めたときとするのか,「特定の人びと」を「差別する」制度をつくったときとするのか,それらによって「起源」は大きく違ってきます。
「特定の人びと」とはだれであるか。「特定の理由」とは何か。また「差別」をどのように定義するか。何を差別ととらえるか。これらによっても「起源」は違ってきます。
そして,これらのことを考えるとき,必ずしも現代の差別の定義・規定が当てはまるとは限りません。当時の人びとの認識が重要となります。また,誰が差別したのかも重要な視点です。これにより,なぜ「その人びと」は「特定の人びと」を差別したのかも明らかになります。さらには,「慣習的・習俗的な差別」か「制度的な差別」なのかも考察すべき課題です。


1−1 起源説 Index Back 

『部落史用語辞典』を参考に「部落の起源説」をまとめておきます。
部落の起源説 (1)異人種起源説 @渡来人子孫説
A古代賤民起源説
B戦争捕虜子孫説
(2)宗教起源説
(3)職業起源説
(4)政治起源説 @16世紀末から17世紀初頭成立説
A寛永期から元禄期成立説
B17世紀後半 寛文・延宝期成立説
C17世紀末から18世紀初頭成立説
 
(1)異人種起源説
異人種起源説とは,部落民は朝鮮・中国など大陸から渡来した異人種の子孫であるとする説です。
「穢多ハ元来外国ヨリ参リタル夷狄ノ種ニシテ,我天照太神官ノ御末ニテ無ユヘナリ,夷狄ハ禽獣同前ナルモノ」
荻生徂徠『政談』
荻生徂徠(1666-1728)
江戸中期の儒学者。名は双松(なべまつ)、字(あざな)は茂卿(しげのり)、通称は惣右衛門。徠は号。物部氏より出たので物(ぶつ)徂徠などと称する。初め朱子学を学んだが、のち古文辞学を唱え、古典主義に立って政治と文芸を重んずる儒学を説いた。柳沢吉保・徳川吉宗に重用された。著「弁道」「論語徴」「園随筆」「南留別志(なるべし)」「訳文筌蹄」など。

「穢多ハ元来外国ヨリ参リタル夷狄ノ種ニシテ,我天照太神官ノ御末ニテ無ユヘナリ,夷狄ハ禽獣同前ナルモノ」
海保青陵『善中談』
海保青陵(1755-1817)
江戸後期の思想家。名は皐鶴(こうかく)。諸国を巡歴し、晩年京都に私塾を開く。商業経済の発展という動向に立脚して現実的な経済論を展開。著「稽古談」など。
穢多等の被差別民を異人種とする説は,江戸期の学者が唱える以前,古くから人々に言い伝えられてきたと考えられます。ここで重要なことは,差別の理由と正当化を「異人種」に求めていることです。これは鎖国時代の日本にあって,朝鮮・中国を「下種」の考えと捉えていたことによると思われます。
@渡来人子孫説
渡来人子孫説とは,古代社会における渡来人の子孫が部落民となったとする説です。
古代社会において日本は,中国・朝鮮から多くの技術や文化を学んできました。稲作などの農耕,青銅器・鉄器や陶磁器などの製作技術,用水路などの土木技術,文字や儒学・仏教などの文化です。渡来人の多くが朝廷の部民となり重く用いられ,天皇家や貴族と通婚がみられることから,賤視されたとは考えられない。
A古代賤民起源説
古代賤民起源説とは,古代賤民の系譜を引く者が近世賤民となったとする説です。
古代の身分制である「良・賤」で,良に属して公民との通婚が認められていたが一般の公民より低くみられていた「品部」「雑戸」を源流とする考えです。品部・雑戸は宮廷の手工業に従事しており,渡来人が多かったことからも考えられた。また雑戸の鷹戸には鷹の生餌を捕る餌取の仕事があったので,えた→餌取→雑戸→渡来人→異人種という連想から系譜が考えられたのです。しかし,宮廷工房は世襲制は早くに崩れ,工房内での技術伝習によって受け継がれていました。また鷹戸は品部であって雑戸ではなく,餌取は近世では部落民ではないこと,律令体制の崩壊や「奴婢停止令」が出されたことなどから,古代身分が近世まで直流しているとは考えられない。
B戦争捕虜子孫説
部落の源流を蝦夷またはアイヌの捕虜とする説と神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜とする説です。
部落の源流を蝦夷またはアイヌの捕虜とする説
江戸時代後期の蘭学者帆足万里が『東潜夫論』に,穢多は日本武尊が蝦夷征伐をしたときの捕虜の子孫であると記しています。
帆足万里(1778-1852)
江戸後期の儒者・理学者。字(あざな)は鵬卿,号は愚亭。豊後日出(ひじ)藩家老の家に生まれる。郷土の先覚三浦梅園の条理学を基礎とし,物理学を中心に自然科学を研究。藩校教授,のち家老となり藩政を改革。著「窮理通」「東潜夫論」「医学啓蒙」など
神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜とする説
シーボルトが『江戸参府紀行』に,部落は一般住民と隔離断絶させられ,非常に低い一種独特の階級で,おそらくその昔隣国朝鮮と戦った時の捕虜の子孫であろうと記しています。
シーボルト(1796-1866)
ドイツの医者・博物学者。1823年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い,多くの俊秀を集めた。28年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚,国外追放となる(シーボルト事件)。59年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」など。
神功皇后や豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の捕虜とする説
慶応末年,摂津西成郡渡辺村(役人村)に対して幕府が御用金を課したとき,渡辺村ではその交換条件として賤称廃止を歎願した書に,自分らの祖先がかつて神功皇后の朝鮮征伐に従事した際,朝鮮の地における一般の風習として嗜んだ肉食を帰陣後も続けたことが,神国清浄の地に合わないとして朝勤を禁ぜられ,非浄人とされて,不浄な御用勤めを命じられ,人間としての交わりを許されなくなったことなどを訴えています。
これらの説は,近世中期の儒学による身分制強化策,国学の日本中心主義思潮や近世末期の攘夷思想の高揚のなかで作り出されたものと考えられます。逆に考えれば,部落民(被差別民・被差別身分)の生活向上や身分解放の動きがあり,それに対する既存体制を維持しようとする動きがこのような説を作り出したと考えることができます。つまり,身分制強化を正当化するために考え出された説と理解する方が自然だと思います。すなわち,部落民の動きへの警戒と,彼は異人種の者であって,一般民衆から蔑視・賤視されるのは当然であるとして,封建的身分制度を存続させようとするために作り出された説と言えるでしょう。
 
(2)宗教起源説
仏教や神道の教義などにより部落差別が成立したとする説です。  
仏教には殺生戒などがあり,生物を殺すことを戒め,肉食を嫌っている。神道では不浄を嫌い死や血の穢れを忌むとしている。これらにより,死牛馬処理・皮革・屠殺などたずさわる人々への賤視が部落差別が生み出したという考えです。確かに,室町中期以降には教団内部や教義に差別観を強調する例もみられ,また近世社会では身分差別を強化し,教団内部にも差別的体質が強化されています。しかし,この説では武士や漁師・猟師などが殺生による差別を受けてない事実を説明することができません。
 
(3)職業起源説
殺生などをなどを行い,死・血の穢れに触れる職業に就いたことによって差別され,部落が成立したとする説です。
古代末から中世には触穢思想によって職業に対する差別観念がありました。律令体制下で鷹や?の餌をとる鷹戸の業種がのちに民間に移り,牛馬の肉から鷹・?の餌をとる業域に拡大され,この業種を営む者は賤民であると評されるようになりました。また「夙」という近世の賤民も古代の「陵戸」のなまった「守戸」からきたもので,守戸は天皇・皇族の陵墓の維持・管理にあたる賤民(「五色の賤」の最上位)であり,このことから墓守の仕事に賤視観が生まれたといわれています。
喜田貞吉は,屠殺などの職業が中世以来嫌忌されるようになり,それに従事した者が賤民にされたと考えました。
喜田貞吉(1871-1939)
近代の日本史学者。徳島県に生まれ,号を斉東野人という。東京帝国大学文科大学卒業。1899年(明治32)日本歴史地理研究会を組織,雑誌「歴史地理」を創刊,1901年文部省に入り,国定国史教科書編さんに当たったが,1911年(明治44)南北朝正閏論争で南北両朝併立の記述をして世を迷わしたと非難を受け,休職となり,そのあいだ,「平城京の研究・法隆寺再建論」1909年で文学博士となる。そしてここでも法隆寺再建・非再建論の中心となっている。1919年(大正8)日本学術普及会を組織し,雑誌「民族と歴史」を創刊,主筆となり「特殊部落号」を編さんしながら部落解放問題に取り組んで先駆的役割を果たした。1920年東京大学教授となり,1924年辞職,以後東京大学・東北大学講師として実地調査を指導し,考古学・民俗学・古代史学・歴史・地理の学際的研究に新分野を開拓している。
しかし,政治起源説の立場からは次のように否定されています。
中世社会の賤民層の者をみると,非農民で支配者や社寺などで使役される種々雑多な雑業をもつ人々のなかに「穢多」といわれる者があり,その中で特に皮革業をおこなう集団が城下町の一部に居住させられ身分も固定させられたのであるから,源流からみると,賤民身分の者がまずあって,それに職業があとから付いたという批判です。つまり,近世の幕藩体制が整備されていくなかで,身分・職業が固定化していったものであり,職業が身分を決定したのではないという考えです。
 
(4)政治起源説
近世において支配者側の行政意図に基づき,身分・職業・居住を固定化し世襲化させたという説です。
@16世紀末から17世紀初頭成立説
中世末・戦国期における「きよめ」などの存在に注目し,それと近世皮多部落の成立を関連づけてみる説です。 
この時期は,太閤検地が行われて中世の荘園制が一掃され,一地一作の原則が全国的に確立しました。また,検地帳に登録されることで耕地の所有を認められる代わりに耕作者・貢租負担者として,その村に緊縛されることになりました。検地帳には,名請人の肩書として中世の賤民称を示す「かわた」「さくい」などの記載があり,また「かわた」の屋敷は「かわた分」として一括登録されている例があることから,身分・職業・居住地が把握された身分制に部落民として規制されたとする考えです。秀吉による刀狩や身分統制令によって兵農分離がおこなわれ,新しい身分制がつくられたとし,そこに根拠を求めています。
A寛永期から元禄期成立説
太閤検地などにみられる「かわた」身分の成立は,社会的分業が成立していく過程であって,皮革生産の権力的集中を示すものであり,賤民身分制を確立していく前提をつくったと考え,「かわた」から「穢多」への転換が行われ,断罪などの役儀の強制などとともに幕藩制的賤民身分として「穢多」身分が固定化された時期を成立とする説です。
B17世紀後半,寛文・延宝期成立説
部落成立の主要な指標を「地域的差別の編成」という事実に求め,太閤検地帳記載の「かわた」や「さいく」は必ずしも居住地を明確にしていないと考え,寛文・延宝期の新しい検地により「かわた」や「さくい」の居住地が劣悪な土地に移されていくことや,検地帳や年貢免状(徴税令書的なもの)などの別帳・別免などの事実から,この時期に成立したとする説です。C17世紀末から18世紀初頭成立説
部落は近世幕藩権力が人民を分裂支配するために政治的に設定したものであり(藤谷俊雄『部落問題の歴史的研究』部落問題研究所),非人身分の設定と関連して穢多身分もこの時期の成立である(後藤陽一「近世の身分制と社会」岩波講座『日本歴史』九)とする説です。
この説では,近世初頭の「かわた」はかなりの土地を保有しており,後の「穢多」とは同一のものではないと考え,また非人身分は寛文・延宝から元禄の時期(1661〜1703)に固有の賤民身分として設定されていると考えています。したがって,「かわた」身分の賤民化も支配者の権力的措置として行われたものである以上,非人身分の場合と同時期であったと推定しています。
 
かわた 「皮多」「革多」「皮太」「皮田」「川田」とも表記される。死牛馬の解体処理にも関わり,そこから得られる皮から皮革製品を生産し,農業や商業活動にも従事した。
さいく 鎧・甲冑・鞍などの武具・馬具や雪駄・草履などの皮革の細工に従事した人々を呼ぶ。
夙(しゅく) 「夙のもの」「宿」とも呼ばれた。宿非人から分化したといわれ,農業・竹細工を主としながら雑芸能・掃除・葬送儀礼に従事した。声聞師・陰陽師・傀儡子などと交流はあったが穢多とは通婚しなかった。



1−2 「近世政治起源説」成立の歴史的背景 Index Back 

紹介した起源に関する諸説ですが,『部落史用語辞典』を元にまとめています。ということは,これら諸説に対する批判も担当執筆者である小林茂氏の立場である「近世政治起源説」からの批判ということになります。小林氏はご自分の立場を「政治起源説」の「A 寛永期から元禄期成立説」とされています。その立場から諸説を論じられ批判されているわけです。ですから,「近世政治起源説」以外の(批判する)立場に立てば,小林氏の批判が必ずしも正しいとは言えなくなります。
「近世政治起源説」を最初に唱えたとされる藤谷俊雄氏(部落問題研究所初代理事長)の考えは,「太閤検地の際に,検地帳の名請け人のなかにあった『かわた』とか『さくい』という中世の賤民身分を,ある時期,法制的に固定化して身分間の移動ができなくしてしまった」ことから部落が成立したというものです。
「近世政治起源説」の論拠を辻本正教氏は,次のようにまとめています。
中世から近世に移行する大きな時代の激変を経て(つまり戦国時代),「かわた」と呼ばれた人々を核にして中世社会にいた様々な賤民の一部を組み込み,近世権力がその中から新しく「穢多」「非人」という近世の身分を再編成した,というものと,中世社会と近世社会の間には大きな断絶があり,身分間の交流が緩やかな中世と厳しく分けられた近世とでは同じ穢多でも社会に占める位置に大きな違いがある,という説がミックスされたものが現在の近世政治起源説といわれる。
『ケガレ意識と部落差別を考える』
つまり「近世政治起源説」とは「被差別部落は近世の政治権力が創り出したものであり,近世の賤民身分は近世幕藩権力が創りだした」という説です。その目的は「近世幕藩権力が人民を支配しやすいように,人民を分断支配するため」です。すなわち,非生産身分である(百姓などの年貢によって生計を立てる)武士が百姓や町人に対する支配を維持していくうえで,彼らからの不平や不満をそらす必要があり,そのために彼らより下に「穢多」「非人」身分を法制度化し,彼らに「まだましである」という優越感をいだかせるのに利用したというのが「近世政治起源説」なのです。 
この説がなぜ運動体のみならず「同和対策審議会」や政府までが採用し,長く教科書にも採用されてきたのだろうか。「近世政治起源説」の歴史背景について,山本尚友氏の講演(「近世身分制をどう捉えるか」『部落解放史ふくおか』第95号)からまとめておきます。
「近世政治起源説」を最初に主張したのは三好伊平次氏です。彼が戦時下(1943(昭和18)年)で出版したのが皇国史観をベースにした『同和問題の歴史的研究』(同和奉公会)ですが,その中で彼は,穢多・非人の問題というのは,江戸時代になって身分を強く締めつけたことが現在の問題の大本となっているという説を展開しています。
皇国史観とは天皇親政の時代を良しとし,そうでない時代を暗黒とする歴史観で,奈良朝から平安時代初期までの天皇が実権を握っている時代を最も輝かしい時代と考え,武士の権力だけとなった江戸時代を最も暗黒の時代と考えています。三好氏は,この皇国史観に合わせて江戸時代は被差別部落にとっても暗黒の時代であったと説いています。
三好伊平次
明治期において全国に先駆け岡山で部落民自身による自主的運動団体である「備作平民会」の創立者として,大正期以降は内務省の融和政策立案者として,さらに昭和期には『同和問題の歴史的研究』を著した部落史研究家として著名である。
1902(明治35)年,岡山県の三好伊平次を中心として結成された備作平民会が部落差別の解消を主張した。部落民出身の彼は部落の人達が自主的に団結して風俗を矯正し,道徳を高め,教育を普及させ,経済的に豊かになり,社会的に認められるようになれば,差別は解消されると考えた。このような部落改善運動が部落の青少年の自覚を呼び起こし,第一次世界大戦後に展開する部落解放運動の素地となっていった。
 * Link *三好伊平次
皇国史観
国体史観とも言い,日本の歴史が万世一系の天皇を中心として展開されてきたと考え,天皇中心の国家体制を正当化しようとする国家主義的な歴史観である。これは,近世の水戸学および国学を基礎としている。つまり,「尊皇譲位,尊皇倒幕」の思想的源流となったものが底辺にあり,そのために明治政府で強い影響力を持った。 「古事記」「日本書紀」の記述を事実として記述し,神話と歴史を混同するだけでなく,大和朝廷の支配を美化し,日本歴史全体を通じて,天皇の絶対化と天皇家の消長を中心的事件と見なしている。日中戦争から太平洋戦争期に,国民統合と戦争動員に大きな役割を果たした。
皇国史観の基本的な主張は次の3点にまとめられる。
(1) 日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅を奉じ,「三種の神器」を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする,天皇の神性とその統治の正当性と永遠性の主張。
(2) 日本国民は臣民として,古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え,国運の発展に努めてきた,とする主張。
(3) こうした国柄(「国体」)の精華は,日本だけにとどめておくのではなく,全世界にあまねく及ぼされなければならない,という主張。
戦後,皇国史観が否定されても江戸時代が民衆にとって暗黒の時代であったという見方は変わることがありませんでした。なぜなら,『菊と刀』を著したルース・ベネディクトに代表される社会学者の研究から,戦前の日本の社会体制と軍国主義は封建制度によって支えられていると主張されたからです。したがって,民主的な日本を建設するためには封建主義を払拭しなければならないという考えから,封建社会である江戸時代に対して,結果的に皇国史観と同じく民衆史観においても最も悪い時代であったと評価されたのです。
ルース・ベネディクト(1887-1948)
アメリカの女性文化人類学者。結婚後34歳にしてコロンビア大学でボアズに師事し,「文化人類学」を学ぶ。コロンビア大学人類学部教授として経歴を閉じた。1934年に『文化の型』を発表,文化を温厚で中庸を重んじる“アポロ型”と,競争的で偏執症的な“ディオニュソス型”の二つの対立項のうちでとらえた。前者の例がプエブロ=インディアンで,後者が北西インディアンとされる。1946年にそれまでの戦時研究の一環として,日本研究の成果である『菊と刀』を発表した。戦時中に,実際,日本を訪れることなしに,在米日本人や日本映画を通じて得た情報により書かれており,“恩”“義理”といったことばを手がかりに日本文化が分析されている。上記いずれの著作とも各国語に翻訳・出版され,広範囲な影響を与えている。
江戸時代が暗黒の時代とされていた時代風潮の中で「近世政治起源説」が生まれました。雑誌『部落』3号に掲載された「部落の起源を衝く」という論文で「近世政治起源説」を最初に主張したのが,当時京都初音中学校の教員であった中村吉治氏です。この論文で彼は,民主日本建設のためにはまず封建制度を乗り越えなければならない,そして封建制度においてこそ被差別部落は身分のくびきに縛りつけられたのだという,「近世政治起源説」の母型を主張されました。これは,何らかの具体的な研究成果からではなく,三好氏と同様に近世暗黒史観に合わせる形での主張でしかありませんでした。
この中村論文の3年後,原田伴彦氏が「近世権力再編説」という「近世政治起源説」の1つの説を発表します。そして,東上高志氏(現部落問題研究所理事長)が原田説を支持し,中世起源説を全面否定する論文を書かれます。さらにそれを,上記した藤谷氏が後押しする論文を発表し,他の研究者がいくつかの事実を掘り起こして補強することで「近世政治起源説」が1つの学説として定着していったというのが実際の過程です。
では,当時の前近代部落史研究の現状はどうであったかというと,当時の中心的な研究者であった林屋辰三郎氏は,『部落の歴史と解放運動』(1954(昭和29)年)で,部落の起源は散所にあり,古代末期・中世起源の部落史像を展開されています。これは,戦前に部落史研究をおこなった柳田國男,喜田貞吉らが古代から中世にかけて部落の起源を求める説を展開しており,これをベースに戦後の研究も進められていたからです。ですから,研究者の間では中世起源が主流であったわけです。
柳田国男(1875-1962 明治8〜昭和37)
農政学者・民俗学者。兵庫県神崎郡福崎町に松岡操・たけの六男として生まれ,1901(明治34)年,大審院判事柳田直平の養嗣子となる。歌人井上通泰は三兄,国語学者松岡静雄は次弟,日本画家松岡映丘は末弟。幼時,生父が時代に適応できず家が貧しかったことや,生母と兄嫁の争いに発した長兄の離婚のため1885年ごろに一家離散を経験したことが,生涯“家の永続”に心を砕く契機となった。1887年,茨城県北相馬郡利根町で医院を開いていた長兄松岡鼎に引き取られ,東西日本の農村民俗の違いを実感した意味は大きい。1890年,進学のため上京,三兄宅に居候するが,1891年,三兄の知己森鴎外の知遇を得,また桂園派歌人松浦萩坪のところに入門,田山花袋を知る。1893年,一高に入学,1895年には島崎藤村,1896年には国木田独歩と親交をもつとともに,「文学界」に新体詩などを発表する。その作品は,1879年,宮崎八百吉編『抒情詩』に収録されたが,同年藤村の『若菜集』が出たことで,自らの詩才に見切りをつけ,〈歌の別れ〉をするも,文学者との交際はなおしばらく続き,1901年,柳田家に入籍したころに,自邸で始めたサロン的集会がやがて自然主義作家を輩出する竜土会に発展したこと,1907年にイプセン会を主宰したことは日本文学史上も見逃せない。この間,1897年,東京帝大法科大学に入学,農政学を専攻,1900年,卒業と同時に農商務省に就職,産業組合・農会の普及を担当するが,当時の農政理論の主流たる小農保護政策の本質が,農村を低賃金労働者の供給源とすることにあるのを見抜き,農民を保護なしで自立できる中農に育成しなければ,農業は〈国の病〉になると主張し,上司と対立,1902年,法制局参事官に移される。形は栄転であるが,農政の現場から外されたことへの憤懣は1910年刊行の講演集『時代ト農政』に満ちている。1910年,内閣書記官記録課長を兼任,1914年,貴族院書記官長となるが,議長徳川家達と衝突,1919年,詰腹を切らされて官界を去り,1920年,東京朝日新聞社客員となる。1921年,国際連盟常設委任統治委員に就任,3期にわたってジュネーブで活躍ののち,1923年に辞意を表明する。1924年,東京朝日新聞社に論説委員として正式入社するが,1930年の引退までにものした389本の社説の2割近くが農政関連であるところに無署名ながら農政学者の面目とその民俗学の経世済民性の根源をみる思いがする。農政官僚として自らの考えを容れられずに挫折した前後,折から自然主義作家として評判を高めていたかつての文学青年仲間の花袋や藤村と<一つ野原の畑を耕>すことを拒否し,佐々木喜善から聞いた話を一字一句ゆるがせずに推敲・彫琢して『遠野物語』として上梓,日本列島先住民とみなした山人の存在に関心を示す。このあと新渡戸稲造と郷土会を組織したり,南方熊楠と交流をもったこと,「郷土研究」を創刊したことは民俗学への模索状況を示すが,1920年の<最も自由なる旅行>の所産『海南小記』『雪国の春』『秋風帖』には旅を学問の方法の主要な一つとしたその“ムラ”の把握の特徴が景観主義的限界とともによく現れている。1924年から“新しい学問”として民俗学の確立をめざし,「民族」を出すとともに,自ら農民史研究を推進するも,その性格もあって一時孤立するが,1935年,その還暦を記念して開かれた日本民俗学講習会を機会に民間伝承の会が結成され,<ごく普通の百姓>たる常民の学として民俗学を標榜する。以後,戦時中にかけて日本人の信仰,とくに祖先崇拝の解明につとめるが,敗戦後は民俗学を“現代科学”たらしめんとし,その実践の一環として国語・社会科の教科書編纂にかかわる。さらに晩年,日本人のルーツや稲作渡来のコースに関心を抱き,1961年刊行の『海上の道』で大胆な仮説を提示する。
 


1−3 「近世政治起源説」批判 … その功罪 Index Back 

先の講演で山本尚友氏が整理されている「近世政治起源説の三類型」「近世政治起源説の功罪」をもとにまとめながら,「近世政治起源説」がなぜ(どこが)問題であるかを明らかにしていこうと思います。
解体・再編説(原田伴彦)
中世社会における賤民身分がそのままの形で近世社会に入っていったわけではない。戦国時代,日吉社の神官の息子であった豊臣秀吉や美濃の油売りであった斎藤道三などのように,身分の低い者が高い身分へと実力(武力)によって成り上がっていく下克上の風潮がおこる。中世の賤民身分もこのような社会の動きの中で消滅しかけており,その消滅しかけていた賤民制度を,近世権力である織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が新たに近世において再編したのが近世の賤民制度である。
この説の問題点は,身分の解体と下克上が必ずしも概念として同じにならないということです。つまり,油売りの斎藤道三が個人として戦国大名になったのが下克上であって,「油売り」そのものは商人の中でも低い身分であるという社会的位置は変わらないまま江戸時代につながっているわけです。穢多身分にしても,中世の京都では「河原者」といわれ,豊臣秀吉が検地をしたときは「かわた」という呼称になり,江戸時代中期以降に「穢多」という呼称に変わっていくけれど,彼らが日本社会の中で人間外・社会外の存在として位置づけられているという身分上の位置は,中世から江戸時代に至るまで同じ位置に置かれ続けてきているわけです。
このことから,中世の賤民身分は基本的には同じ枠組みで近世につながっているといえます。なぜなら,賤民身分の多くが権力に何らかの形で保護され庇護される特性をもっているからです。穢多身分の場合,軍需品である皮革を生産して上納すると同時に,武士の下で刑吏役を担うことで一定の給分と土地を保証されています。ですから,他の職人身分などが流動的であった戦国時代にあっても,かわたや河原者という皮革を武士に供給する賤民集団は武士に把握され続けています。このことは近世初頭,江戸時代においても変わっていません。
河原者
中世においては,河原に居住し,種々の生業に従事したものをさすが,近世には,歌舞伎役者など芸能関係の人々をとくに意味するようになる。古代・中世の河原は,現在のそれより広く,しかも農業に適さず無税地であったため,各地から集まった逃亡農民や飢民が居住し,川の流れや河原そのものを利用して生活を営んだ。とくに,京都・鴨川の河原は,これらの人々の活動の舞台となった。ところで,こうした河原に人々が住みつくようになったのがいつごろからか不明であるが,『左経記』1016(長和5)年正月の条に,<牛一頭令労飼之間,昨慮外斃之,河原人等来向,剥取件牛之間云々>の記事があり,このころすでに,斃牛馬を処理し皮革を扱う「河原人」のいることが知られる。皮なめしには,大量の水と皮干し場が必要なため,河原を利用したものであろう。しかし,これは河原者の職業の一部にすぎず,寺社や貴族の行う工事・普請などには,さまざまな労働力供給源として利用された。それらは,庭園の築造修理や建築の下働き清掃や運搬など,いっさいの雑用を含んでおり,河原者は,こうした雑業者集団としての性格を強めていった。彼らのなかには,寺社や貴族に直接隷属するものも現れ,それぞれの職業において勝れた才能を発揮する人々も登場する。『蔭涼軒日録』の1491(延徳3)年10月の条には<河原者三人鑿小井之底,塗竈安釜,珍重云々>の記事があり,専門的な井戸掘りの技術をもった職人も現れる。その他,石組み・屋根茸き・壁塗り・かまど塗りなどがあり,とくに東山時代,「泉石の妙手」として,8代将軍義政に重く用いられた善阿弥は,慈照寺銀閣の作庭で知られ,その築庭技術は,義政の高く評価するところとなった。また,伏見城の築庭や盆栽・庭石の宰配を行った人々も,当時の高名な山水河原者であった。河原者はこうした土木・建築以外にも,川の流れを利用した染色業や運送業にも従事し,馬借や車借とも深い関係があるといわれている。このように,河原者はさまざまな職業に従事し,土木・建築・商工業の各分野に重要な役割を果たすが,その居住地である河原は,いわば社会外の空間であり,堤上と河原のあいだには厳然たる差別が存在したといわれている。しかも,たび重なる大水は,その住居をも押し流し,河原は多くの死体で埋ったという。飢饉に際しては,河原は死骸の捨て場として利用された。1461(寛正2)年の大飢饉の際,京都では2カ月足らずのうちに8万2千人が死んだといわれ,四条の橋から鴨川の上流を見た『碧山日録』の筆者は,<流屍無数,如塊石磊落,流水壅塞,其腐鼻不可当也>と記録している。こうしたことが,河原者に対する卑賤観を助長したであろうことは疑うことができない。これが,河原者に対して,犯人の追捕,囚人の監視・護送,刑の執行などを義務労役として課す契機となる。死刑の執行やさらし刑は,古くから河原で行われるのが通例で,河原者が使役されていくうちに,しだいに義務化したものと想像される。『蔭涼軒日録』の1488(長亨2)年8月11日の記事には,<使河原者刎頭>とある。その他,河原者には,生活の糧を求めて,遊芸に従事するものも多く,祭文・説教節・浄瑠璃・三味線・蜘蛛舞・からくり・見世物など多岐にわたっている。ここから,近世の人形浄瑠璃や歌舞伎が生みだされてくる。河原では,南北朝以来,田楽・猿楽・角力などの勧進興行がたびたび催され,広い河原には舞台や桟敷が構えられ,その作業要員としても河原者が使役されたため,これらの興行に対する河原者の発言力がしだいに増し,諸興行の支配権が生まれる。これが,近世における櫓銭などの起源となる。近世には,こうした諸芸能に従事する人々を,主として河原者と呼ぶようになるが,歌舞伎役者が1匹2匹と数えられたといわれるように,近世においても賤視の対象とされ,士農工商の外の身分として位置づけられた。
 
社会構造断絶説(脇田修)
中世社会と近世社会とが基本的に社会構造として異質であること,たとえば武士階級による支配のあり方などが異なっていることをベースに,独自の役負担を課せられた近世賤民と中世賤民をひとつのつながりのものとして理解すべきではない。近世の被差別部落はこのような固有性があるから「近世部落の起源」は近世初頭にしか求められない。
秀吉が出した中間奉公の禁止令によって町人・百姓が武士に奉公することが禁止され,刀狩令によって帯刀が禁止される中で近世身分制度が整備されていき,近世の百姓は基本的に帯刀せず名字ももたず農業に専念して村に住む人間と定義されます。それに対して中世の百姓(上層の百姓であれば)は刀や名字も,自分の領地や家来さえもっています。このように,近世の百姓と中世の百姓ではまったく違います。しかし,近世百姓の起源は近世の初頭に求めても,百姓の起源は近世初頭には求めず,古代の百姓に求めます。同様に,近世賤民身分の起源は近世初頭に求めることはできても,賤民身分の起源は近世に求めることはできません。
 
近世権力創設説(船越昌・石尾芳久)
近世権力が一向一揆に参加した民衆を被差別身分にすることで,被差別部落をつくった。
この根拠とされるべき事例,一向一揆に参加した者が被差別身分にされた例が一例もありません。
一向一揆 
一向宗は,親鸞が創始したが,単に“しんしゅう”ともいう。一向一心に阿弥陀仏を念ずるところから,一向宗と呼ばれる浄土真宗の異称である。一揆は,代官・守護勢力など時の支配者に抵抗した近世農民の集団的暴動であって,武装蜂起にまで発展した反抗運動である。その性格によって一向一揆のほかに,土一揆・国一揆・徳政一揆,近世においては,百姓一揆がとくに有名である。北陸・東海・近畿各地で,室町後半におこった仏教一向宗(浄土真宗)信者の一揆を一向一揆という。簡単な宗教闘争ではなく,国一揆(応仁の乱ごろから,農村土着の国衆・国人などが,守護大名と戦った),や土一揆(農村の有力地主がその中心となって蜂起して戦った一揆)などと同じく,室町後半当時の世間の風潮が表面化した一揆であって,戦国大名や守護大名に反抗する強力な一大社会勢力であった。
一向宗は,本願寺の8代法主であった有名な蓮如らの努力で,15世紀以後,とくに北陸と東海および近畿地方の農村を中心にその勢力を拡大した。一向門徒(もんと,信者)は,しばらくすると,これらの地方においてその勢力を浸透させた。まもなく講(こう,信仰上の集会)を基礎として,実に強大な組織を誇るまでに成長をとげた。必然的に搾取に狂奔する支配層に反抗する段階から,対立する程度にまで成長していった。応仁の乱(1467・応仁1)は,東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが,前後11年(1467〜77・応仁l〜文明9),足利将軍家の相続問題を原因として,京都を中心にして,これら東西の大軍が激突した大乱であった。京都はもちろんのこと,その郊外にいたるまで,この応仁の乱の戦場と化し,内裏はいうまでもなく,京都の大小の邸宅を手初めとして,京都の美は戦火の犠牲となった。これからのちは,室町幕府の威令は,ついに地に落ち,やがて日本全国において,さまざまな群雄が割拠するという異例の事態を招来するとともに,戦国時代を導いた。この後は,いわゆる下剋上の勢力はいっそう激化し,今まで支配階級から弾圧されていた門徒農民の一揆も,しだいにその活動が活発となっていったのも,この時代の一つの注目すべき風潮である。一向一揆は,はじめのうちは,地方土着の武士や土豪を意味する“国人”に反抗するとともに対抗する運動を展開していった。一方,国人の一部は,自分の力だけでは宗教的信念に裏づけされた死を恐れない一向一揆を単なる力で抑えることは難しいと悟った。そこでまず最初は門徒と妥協して,この難局を乗りきろうと試みたが,そのうち国人の一部は進んで門徒に参加するとともに,従来の守護大名らに取って代わるために,一向一揆の強力な組織と勢力を利用しようと試みる野心家まで生まれてきた。こうして一向一揆は,しだいに,領国の支配権の争奪戦の様相を示しはじめたのである。一向宗の盛んであった越中(富山県)・加賀(石川県)・越前(福井県)・三河(愛知県)・紀伊(和歌山県)などで,当然のことながら,一向一揆はしばしばおこり,特筆すべき事件として,加賀の強力な一向一揆がある。1488(長享2)年,守護大名だった有名な富樫政親(とがしまさちか)の軍勢を打ち破って,富樫を敗死させるほどの猛威をふるった。それからのち,100年近くの長い期間にわたって,一向一揆の門徒による加賀の領国支配が永続したので,人々はこれを<百姓のモチタル国>といって驚くとともに,周囲の支配階級からは恐れられたという。ここで注目すべきことは,一向一揆は,農村における宗教的な組織が,国人層や農民層の,現状打破のための闘争に利用された傾向が強くみられるのであって,一向宗の教えがストレートに一揆の思想的なバックボーンとなったと単純に考えることはできないということである。すなわち本願寺は,最初のうちは,門徒の一揆を厳重に禁止していた。蓮如の本拠だった越前の吉崎御坊は,守護朝倉氏に責任を問われて1506(永正3)年に破壊されてしまった。
 
【石山合戦と一向一揆の終末】織田信長と大坂石山の本願寺とのあいだで1570〜80(元亀1〜天正8)年の11年間もの長いあいだ,激しい戦いが行われた。真宗の成長と発展につれて,15世紀の中ごろから,一向一揆が各地で頻発したが,これらの一向一揆と本願寺は関係を保ちながら,だんだんと強力な一大勢力へと発展し,やがてはいわゆる本願寺王国を形成していった。日本全国の統一を志した信長は,近畿へ軍を進め,本願寺は全国の門徒に指令を発してこれを動員し,また反信長の諸大名とも連絡を緊密にし,信長と激しく争った。織田信長は,伊勢(三重県)の長島をはじめ,越前・加賀・紀伊の門徒たちを次々に打ちくずし,本願寺の経済的・軍事的背景を崩壊させるようつとめた。本願寺は,信長の執拗な包囲攻撃に切りくずされていき,ついに朝廷に仲介を依頼した信長と講和し,開城し,顕如は紀伊へ退却して行った。このようにして約1世紀以上にわたって各地で発生した一向一揆は,だんだんと終わりをつげ,最初の念願であった信長の畿内平定もようやく実現することになった。
 
【石山本願寺と一向一揆】中国経営の必要から,織田信長は大坂を軍事的・政治的の拠点としようと思い,この地に城を築こうとし,1570(元亀1)年に石山本願寺の顕如に対して,寺を移すよう頼んで拒絶された。前後11年間の戦いの後,1580(天正8)年,信長は正親町天皇に奏請し,勅命が下って和議が同年閨3月に成立した。顕如は4月に石山本願寺から退寺していった。顕如の子の教如はその後も戦いをつづけたが,7月末に敗れて石山寺から退いた。
このような批判や問題がありながらも,「近世政治起源説」が部落史研究上で果たした役割は大きく,特に次の2点が成果と考えられます。
「近世政治起源説」によって,初めて本格的な近世賤民制度の研究が始められたこと。
賤民制度として,中世と近世の非連続性が明らかにされたこと。
つまり,中世ではかなり流動的であった身分制度が近世社会で再編され固めなおされて,その中で被差別部落が再定置されていくことが明らかにされた。
次に,「近世政治起源説」が生み出した問題点(功罪)をまとめておきます。
その第1は,身分制度に対する政治権力の関与について過大に評価しすぎたという点です。身分が政治権力とまったく無関係に生成したり定着したりすることはありえませんが,逆に身分を創造するということもありえません。権力ができるのは,すでにある身分を合わせたり分割したりすることであって,無から有を生むような身分創設はできません。
にもかかわらず,政治権力が被差別部落を創出したとする「近世政治起源説」が長く戦後社会の中で続いてきた最大の要因は,部落解放運動が長い間「行政闘争」を中心に展開してきたことだと考えられます。解放運動の主流が行政闘争中心であった時代,「政治権力がつくったものを,今の権力がなくすのは当然である」を大義名分にして行政施策(同和事業)を要求してきた運動体にとって「近世政治起源説」は都合の良い理論であったのです。そして,行政闘争だけで部落差別を解決することが無理だとはっきりしてきたことを背景に,部落の中世起源が見直されるようになったのです。つまり,部落差別は確かに権力によってつくられ,権力によって維持されていくが,それは日本社会の構造に合った形でつくられ,日本社会がそれを内面化し続けてきたからこそ今も差別が残っているのです。このことを明らかにし,日本社会の根底にあって差別を容認させてきた社会の有り様そのものを考えていくためには,中世起源から考察していく必要があるのです。
第2は,被差別身分を創出することができるほどに政治権力が絶対であり巨大であり,権力の意図するとおりの社会が江戸時代に実現したという錯覚を人々に与えたということです。「民衆の団結を防ぐための分断支配」として,あるいは「重い年貢を搾取される百姓の不平や不満をそらし,一揆を防止するための鎮め石」として被差別身分が存在させられ,悲惨な生活を余儀なくされたというイメージを人々の中に作り上げたのです。なぜなら,権力の絶大さを強調することで「近世政治起源説」の信憑性が高まるからです。
はたして江戸時代の政治権力はそれほどに強大で絶大なものであったのだろうか。教科書に記述されている「百姓一揆の件数グラフ」は年を追うごとに件数を増やしている。このことは,分断支配の効果がなく,一揆の防止にも役立っていないことを証明している。あるいは,杵築藩では,10年間の年貢皆済の恩賞として,その村役人・平百姓・穢多身分すべてに褒美を与えている。ただし,褒美は身分間で差が設けられていた。
「近世政治起源説」は解放運動の流れや同和教育の流れの中で,教育・啓発の場での「わかりやすさ」を重視した結果,「身分制度のピラミッド図」のような極端な図式化,『カムイ伝』のような一面的な解釈が行われたのです。この図は身分の違いを「上下」に表しているため,「価値あるもの=武士」「価値のないもの=部落」として認知され,「悲惨な部落」が強調されてしまう結果を生みました。そして,明治以後の歴史過程の中で「社会の最底辺で,貧困で悲惨な生活をする部落」となっていったにもかかわらず,その原因を江戸時代の政治権力に求め,その悲惨な実態は江戸時代から変わらず現在に至ったと認識されようになったのです。「江戸時代の権力者が悪い」「自分は(江戸時代の)部落に生まれなくてよかった」といった生徒の感想も当然のことなのです。なぜなら,部落差別は過去に発生した問題であり,自分たちに責任も関係のないことと受けとめてしまうからです。
 

 
2ケガレとキヨメ
…封建社会の身分制度のもとにおいては,同和地区住民は最下級の賤しい身分と規定され,職業,住居,婚姻,交際,服装等にいたるまで社会生活のあらゆる面できびしい差別扱いをうけ,人間外のものとして,人格をふみにじられていたのである。
「同和対策審議会答申」
「人間外」とはどういう意味でしょうか。なぜ被差別民は「人間外」とされたのでしょうか。『部落史用語辞典』には「社会構成体の最下層に位置づけられ,政治的・経済的・社会的諸条件において基本的人権を無視され,禽獣的な取扱いを受けた階層の人」と定義されています。文字通り「人間の外」に位置づけられた「人間扱いされない存在」です。「同じ人間なのに差別を受けて…」と言われますが,本来は「同じ人間と見なされなかった」のです。その理由は彼らが「穢多」と呼ばれる,文字の通り「穢れが多い」存在だからであり,「穢れを持ち込む」存在だからです。そして,何よりも「穢れ」はうつる(伝播する)と考えられていました。そのため,彼らと接触することは「穢れ」がうつることであり,「穢れ」がうつると困るから「人間の外」に彼らを遠ざけたのです。
ここには「穢れた者」と「穢れていない者」という二律背反の考え(立場)があります。「穢れていない者」が特定の人々を「穢れている者」と一方的に断定(決めつけ)することで「穢れ」に実在感が付与されるわけです。本来見えない(実在しない)「穢れ」を見える(実在する)「もの」によって(使って)実在するかのように思わせている。このトリックの道具が「清め塩」などであり,その根底にあるのが「触穢思想」です。「穢れ」と「穢れの伝播(伝染)」の恐怖を強調すればするほど実在感は増していくのです。「清め」の必要性が強調されるほどに「穢れ」の恐怖と嫌悪感・賤視感が倍加されていくのです。
「触穢」とは,人の死や出産,宍(肉)を食することなどを不浄・穢れ(ケガレ)たと考え,これに接触した人が清浄の身にもどるまでは朝廷の行事や神事に携わるのを忌んだことをいいます。927年に成立した『延喜式』にはケガレについて細かい規定があります。これは,人々の生活における穢れの禁忌を制度化することで,国家の管理の下におこうとしたものです。
凡そ穢れ悪しきことに触れ,まさに忌むべきは,人の死は三十日を限る(葬日より始めて計う),産は七日,六畜の死は五日,産は三日(鶏は忌の限りにあらず),それ宍を喫らわば三日(これ官のみ,尋常これを忌む,ただし祭の時に当たりては,余の司も皆忌む)
凡そ,宮女懐妊せば,散斎の日の前に退出せよ。
『延喜式』
三不浄
人畜の死からでる「黒不浄」,出産にかかわるものは「白不浄」,女性の生理など出血にかかわるものは「血穢」とされる「赤不浄」を合わせて三不浄という。
 
凡そ甲処に穢あり,乙其の処に入らば著座を請う。下も亦同じということで,乙及び同処の人皆穢となす。
『延喜式』
三転
直接に穢れに触れた「甲」なる人の所に「乙」が出入りしたならば,「乙」および「乙」と一緒に住む人は皆穢れるとし,「丙」が「乙」の所に出入りしたならば,「丙」だけの穢れとし,「丙」の同居人は穢れとしない。ただし,「乙」が「丙」の所に入れば「丙」の所の人は皆穢れである。また,「丁」が「丙」の所に出入りしても穢れとはみなさない。このように穢れの伝染力を衰退させながら消滅していく伝播の過程を定めている。
 


2−1 浄穢思想の歴史(1)
… 部落差別の源流:インド(ヒンドゥー教)
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まず「浄穢思想」がどのような歴史経緯を経て日本の文化や思想,人々の意識に浸透していったかを簡単に概観しておきます。
浄穢思想はインドのヒンドゥー教に起源があり,密教や神仏習合などと関連しながら日本に受容されたものと考えられます。
古代インダス文明は青銅器や文字をもつ都市国家として栄えていましたが,紀元前1500年〜前600年頃に,西方から鉄製の武器や馬車をもつアーリア人が進入を始め,先住民を征服しながらパンジャーブ地方・ガンジス川流域へと生活圏を拡大しつつ農耕社会を形成していきました。アーリア人は優位な立場にはあったものの完全に先住民を追い払う形はとらず,人種的・文化的に融け合いながら新しい社会をつくりあげました。ここでは祭式が重要性をもち,司祭の権威が高まるにつれて排他的となり,それはしだいに身分制度へと発展していきました。これが「ヴァルナ(種姓)制度」の始まりです。
カースト
インドにおける社会的身分制度。多くの場合差別的である。ポルトガル人がインドにこの制度をみてカスタ(Casta)と呼んだのが起源。インドではヴァルナ(色)とかジャーティー(生まれ)とかがこれに相当することばである。伝銃的なヒンドゥー教経典によると,神はバラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ・スードラの四つのカーストを定め,各々のカーストはダルマ(法)により,カースト外の人々とともに食事すること,相互に結婚することを禁じている,とする。これがヴァルナである。たしかにヴァルナは後期ヴェーダ期にバラモンが理論化し,為政者たるクシャトリヤが支持したときにはある程度現実と一致していたと思われるが,現在ではヴァルナはサンスクリットの経典に記されている全インド的な,理論的なヒエラルキーとされ,現実には数千のカースト,およびカースト外の不可触民といわれる人々がいる。ともに食事することの禁や通婚の規則も時代や地域によって異なっている。したがってカーストは地方的な単位であり,ある程度職業と重なり,共通の儀社・習慣をもち,結婚と伴食に関するタブーを共有し,浄・不浄の原理でヒエラルキーを形成するグループといえる。
祭祀を司り,祭贄によって神々を満足させ,祭式に関する専門的知識をもち祭式教学を独占して神の恩恵を人々に伝えるという祭司階級のバラモンは自然現象を神として崇め,神々への賛歌や祭の儀式を「ヴェーダ」にまとめ,宗教的・社会的指導者となり,その権威を保持し続けました。この宗教がバラモン教です。
バラモン教
インド=アーリヤ人の間から創始者のない民族宗教として生まれ,しだいに非アーリヤ人の間まで広がっていった。前10世紀〜前8世紀から遅くても後数世紀までを狭義のバラモン教という。
【バラモン教の特質】
@ インド亜大陸に生まれ育った開祖のない民族宗教。
A バラモン教徒は世襲的で,それ以外の人たちの改宗が難しかった。インド=アーリヤ人が主体であるが,ドラヴィダ人を征服していく過程において,例外的にドラヴィダ人は改宗することが許された。
B ヴェーダの権威は絶対で神聖である。
C バラモンは祭祀およびヴェーダの教授を独占し,宗教的・社会的生活の頂点に立つ。
D 四種姓=カースト体制がしだいに確立。四種姓は,第1位バラモン,第2位クシャトリヤ(刹舎利,王族。政治や軍事に従事,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第3位ヴァイシャ(毘舎。商業・農業・牧畜,自分のための祭祀・ヴェーダ聖典の学習・布施。)第4位シュードラ(首陀羅。上位三種姓への奉仕。)以上四つの宗教的・社会的区分である。一方,カーストはより細別された固有の職業をもった排他的集団で,大きな枠組みの四種姓に属している。四種姓とカーストは,排他的内婚・世襲的職業・上下貴賤浄不浄の秩序体系,という特質をもっている。
E バラモン教の後半期には初期のバラモン教学が成立した。
F 神に関して,バラモン教学上はさまざまな説があるが,信徒たちは現実的には多神を崇拝していた。
G バラモン教の寺院は,他の宗教に一般に見られる総本山=末寺体制よりは各村落に密着している。また四種姓=カースト体制も,それらが相互補完的・相互扶助的自治的な村落共同体を形成するようになってきた。
紀元前7世紀ごろには多数の部族社会が成長していたが,そのうちの4大国は強力な組織をもち,国家としての形を整えながら領土を拡大していった。最大の国マガダ国のマウルヤ王朝第3代のアショーカ王(前273〜前232ごろ)はインド亜大陸のほぼ全域を統一し,マウリヤ帝国を築いた。アショーカ王やクシャーナ王朝のカニシカ王は仏教を保護し,ガンダーラ美術などが栄えました。アショーカ王の死後ほどなく帝国は分裂したが,この間に各地方は文化的・経済的に大きく発展しました。
 4世紀におこったグプタ朝(320〜550)の頃より封建社会が形成されるようになり,再びバラモン文化が栄え,ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神などの土着の信仰や習俗と融合してヒンドゥー教が成立していきます。
ヒンドゥー教は宗教ですが,単なる宗教の域を超え,宗教的レベルを異にするさまざまな宗教的観念や儀礼,行法のみならず,カーストという社会構造や慣行,倫理など,生活文化のすべてが含まれる生活法といえるものです。そこで強調されることは「今あなたが存在しているのは前世の行為の結果であるから,そのカースト固有の職に専念しなければならない。それによってのみ,来世の幸福が約束される。他のカーストの仕事をいくらおこなっても成功しない」という「輪廻」と「業」の観念です。
ヒンドゥー教
 ヒンドゥー教には多くの神々がいる。シヴァ神やヴィシュヌ神は全インドに神祠があり,広く信奉されている「偉大なる神」である。一方,一地方にのみ信奉されている神もいるし,村々には独自の村神が何神もある。大小さまざまな神がいて,とくに中心的な神はいない。しいていえば,古来よりブラフマー,ヴィシュヌ,シヴァがそれぞれに宇宙の創造,維持,破壊をつかさどるという3神一体説(トリムールティ)があるが,これは教理的なもので,ブラフマーは,ほとんど実際には信奉されていない。神々の系譜は複雑である。アーリア人のもち込んだ神々は自然現象の擬人化で,たとえばインドラは雷の神である。シヴァやヴィシュヌはヴェーダ期の神々と関係はもちつつも,実は先住部族の性格を吸収し,あるいは付加して大きくなった。神話,伝説上の人物の神格化されたものもある。ヴィシュヌの第9番目の化身はブッダで,元来は人間であるし,クリシュナもおそらく実在の人間である。スールヤ(太陽)神はヴェーダ期の神だが,のちにイランからきた別の系統の太陽神崇拝と習合している。女神は5世紀ごろからとくに有力となり,男神が1人または複数の神妃をもつようになった。方角神もいれば,動物も神格化されている。さまざまな鬼霊も少なくない。ヒンドゥーパンテオンには八百万(やおよろず)の神々がいるのである。さまざまな神々の背後には,実は,唯一の最高者の観念が横たわっている。その最高者は神々の上に存在する万物の原因であるが,われわれの認識を超える。そのためにこそ,シヴァやヴィシュヌらのすべての神は具体的形態をとりつつ,最高者の「顕現」として存在すると考えられている。すなわち,すべての神は最高者の異なる局面を代表するものであり,したがって,相互に排他的ではない。ヒンドゥー教にはいわゆる組織化された宗派ないし教団はない。なるほど,シヴァ派やヴィシュヌ派という表現はありうるし,各派の行者は額に独自のマークをつけたりする。しかし,これは主としてシヴァ神やヴィシュヌ神を崇拝しているということであって,行者や信徒の未組織の集まりにすぎない。神祠や寺院はそれぞれ独立していて,当該地域とのかかわりのなかで,1人ないし複数の僧が住みつき,儀礼をつかさどる。
【儀礼】人は儀礼を介して神々と交流する。その基本である礼拝の最も普通の形式はプージャーという。神への崇拝と奉仕を本質とし,花,香,灯明,花環,飲食物を祈りと感謝の言葉とともに捧げる。個人の礼拝や家庭での祭祀,公共の祭りなどがこの形式で行われる。現在プージャーという言葉はドゥルガー(女神)・プージャーとか,サラスヴァティー(女神)・プージャーというように,数日以上つづく祭を示すこともある。ホーマという形式はプージャーよりも歴史は古い。火壇をつくって火をたき,火中に供物として穀物や油を投じる。供物は煙とともに天に昇って神々のところにいたるという。のちに仏教に摂取され,護摩という音写語をもって日本にも伝わっている。いけにえを捧げて,きわめて現実的な恩恵を求める儀礼は,現在でも村神祀りにはたびたび行われる。また,ベンガル,アッサム地方でとくに信奉されているカーリー女神(シヴァ神妃の1人)の礼拝にもみられる。今日でも,ヒンドゥー教徒は家の神棚,神祠,寺などではプージャーを盛んに行う。おりにふれて寺に詣で聖地に巡礼するのはヒンドゥー教徒の個人の宗教生活の重要な一部といってよい。寺や聖地ではタンク(沐浴用の池)や川で沐浴する。沐浴は人を宗教的に浄化し,罪を洗い浄め功徳を増すものと信じられている。とくに聖地における沐浴は功徳が大きく,たとえばガンジス河に沿うファーラーナシー(ベナレス)には全国からヒンドゥー教徒が集まってくる。人生の節目を通るときに行われる通過儀礼はさまざまだが,現在普通に行われているのは受胎式,命名式,お食べぞめ式,入法式,結婚式などである。入法式とは主としてバラモンの少年が7〜8歳に成長したときに行うもので,聖索(せいさく)をかけてもらい,精神的に生まれ代るという。その他の儀式の意義は日本と同様である。
【教義と人生観】ヒンドゥー教に特定の教義はない。ヒンドゥー教徒であることの最大の標識はカーストの成員たることで,ダルマ(具体的にはカーストのルール)を守る限り,彼はヒンドゥーである。したがって,いかなるイズムもヒンドゥーであることとは関係がないし,同時に,いかなる思想もヒンドゥーの思想たりうる。しかし,すべてのヒンドゥー教徒にほぼ受容されている思想もある。業(ごう)と輪廻(りんね)もその一つである。この思想は人々の倫理観の基盤をもなすものである。善悪の業はしばしば,功徳(プニヤ)と悪徳(パーパ)という観念に置きかえられる。功徳を積みうる行為は社会への布施や奉仕,そして正しい生活,とくに神への献身などがあるが,善をなす理由は死後に生天して安楽な生活を送るためにある。業,輪廻の観念は,高い教育を受けた人々のあいだでも当然のこととして受容され,ダルマの積極的実践を支えている。ヒンドゥー教は古代から実存レベルの宗教観念と行法を発達させた。ウパニシャッド文献が強調する「梵我一如(ぼんがいちにょ)」も,ヨーガの伝承の禅定と三昧も,その例である。仏教の涅槃もそうであるし,タントラ教の性交を行法として行うという教えも,めざすのは宇宙の根元の力であるシヴァ・シャクティとの合一である。こうした行法は一般の人間には難しいが,誰にでも可能な神との合一の道として,バクティ(信愛)が説かれた。自我をすべて捨て,無私になりきり,まかせきって,ひたすらに絶対者への信と愛を捧げていく行法である。とくに中世以降にはさまざまな流れが生じ,宗教運動がおこっている。とくにヴィシュヌ派の系統で強調されたが,シヴァ派にもある。イスラム教が入ってからは,イスラーム神秘主義(スーフィズム)と相互に影響をわかちあい,人々をカーストの差を超えた信仰にかり立てていった。
ヒンドゥー教は信仰と生活実践を一体化している宗教で,社会制度・法律・倫理・道徳体系と不可分のもので,その中心になっているのが「浄穢思想」です。次に,その特徴をまとめておきます。
@ 万物をすべて浄穢で体系づけ,それを人間界に適用したものがカースト制度である。
A 死・産・血の三不浄と生理的排泄物,罪や災いを穢れとする。
B 穢れは単なる観念ではなく,生きている実態であるから,接近・接触,影を踏んでも視線が合っても伝染する。
C 穢れに関わる仕事に従事する者は穢れた者となる。
D 穢れた場合,厳しい戒律のもとで浄化儀礼をしなければならない。そうしなければ,穢れはその人の属性となってしまう。
E 不可触民差別,女性差別,障害者差別などが一体となっている。
F 「マヌ法典」が聖典・教本である。
 
マヌ法典
成立の下限は西暦200年ごろとされ,それ以来のインド法典類のなかでも最も優れたものであると同時に,バラモン教・ヒンドゥー教の生活の支柱となった。一般にそれ以前の律法経より,法典が成立したとされるが,マヌ法典も,ヴェーダーの一学派のマーナヴァ派の律法経に立脚したものとされる。12章2,684条よりなり,内容は,現代的意味の法律的規定は4分の1で,宇宙論・宗教・道徳・倫理等に関する事項を含み,四種姓の権利・義務・生活期の通過儀礼,種々の通過儀礼を規定し,輪廻・解脱までに及んでいる。法律的条項としては,国家や国王の行政上事項・相続法・婚姻法などを含んでいる。立脚点はマーナヴァ派であるにもかかわらず全インド的性格を持ち,やや理念的・文学的・教訓的色彩が強いため,インド人の生活のみか内面にも深い影響を与えつづけた。バラモン中心の四種姓=カースト体制維持に貢献したが,下位階級には厳しい。


つづく
 


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